芝居好きな珍獣シロクマの、主に観劇記などをUPした日記です
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枝光と鹿野にみるハレとケ
「ハレとケ」って何?・・・と思う人は多いと思う。
これは柳田國男によって見出された、日本人の伝統的な世界観のこと。
「ハレ(晴れ)」とは非日常的な素晴らしいことやめでたいこと。
「ケ(褻)」とは普段の生活のこと。
「ケガレ(穢れ)」は元々「ケ(褻)が枯れる」=「気枯れ」であり、日常の生活がうまくいかないこと。
という前置きをしておいて、さて本題。
枝光アイアンシアターには、鳥の劇場に非常に近い空気を感じた。
もちろん全てが似ているというわけではないけれども。
鹿野には城下町として栄えた歴史があり、枝光には製鐵所で活況を呈していた過去があるが、現在ではどちらも都市の外縁部の一つとなっている。
そこにはどこか「忘れられた」「捨てられた」「取り残された」といったような負のオーラがあり、地区全体から流れている停滞感や、住民の高齢化も似たような雰囲気を醸し出している。
そこにいきなり演劇人が乗り込んできて、劇場なんてものをつくって、何やらよく分からん芝居なんてものをワイワイとやらかしている・・・。
もちろんやっている芝居の傾向も違うし手法も違うのだけれど、目指しているものは同じようなことで、つまりそれは「演劇でこの地域を盛り上げてやる!」といった心意気だと感じる。
両者のやろうとしていることとは、即ち上記の「ハレ」なのだと思う。
なんとなくうまくいかなくなってしまった地方の「ケガレ」のような現状を、非日常的な空間を現出させる演劇という「ハレ」で浄化し、「ケ」の状態に戻そうとしているのではないか・・・?
何故このようなことを書いたのかというと、9月の鳥の演劇祭3のときに参加したパレードと、今回の枝光での商店街のど真ん中で上演された芝居とが、僕の中ではまさに「ハレ」だと感じられたからだ。
それは昔、夏祭りの盆踊りだとか、地蔵さんの祭だとか、そういった年中行事・伝統行事の中で感じた感覚に似ている気がする。
元々はその地方ごとにあった古い祭や行事、そこにはたしかに「ケガレ」を祓う「ハレ」の要素があったはずで、だからこそアレコレとあってもそこに人々は暮らしていけたのだと思う。
今、そうしたハレの行事がどれほど残っているだろうか?
形だけは残っていても、形骸化・観光資源化・商業化してしまい、「想い」が軽視されてはいないだろうか?
今、そうした行事を復活させる動きは確かにある。
けれども、本当に過疎化や高齢化が進行した地域ではなかなか難しい。
そうしたときにこそ、演劇の持つ非日常性や娯楽性といったものが有用なのではなかろうか?
鹿野の「鳥の演劇祭」と枝光の「えだみつ演劇FESTIVAL」。
これらが是非、それぞれの地での「ハレの行事」となり、地域に「ケ」を取り戻していって欲しい!
そこに演劇の可能性と新たな魅力を感じずにはいられない・・・。
これは柳田國男によって見出された、日本人の伝統的な世界観のこと。
「ハレ(晴れ)」とは非日常的な素晴らしいことやめでたいこと。
「ケ(褻)」とは普段の生活のこと。
「ケガレ(穢れ)」は元々「ケ(褻)が枯れる」=「気枯れ」であり、日常の生活がうまくいかないこと。
という前置きをしておいて、さて本題。
枝光アイアンシアターには、鳥の劇場に非常に近い空気を感じた。
もちろん全てが似ているというわけではないけれども。
鹿野には城下町として栄えた歴史があり、枝光には製鐵所で活況を呈していた過去があるが、現在ではどちらも都市の外縁部の一つとなっている。
そこにはどこか「忘れられた」「捨てられた」「取り残された」といったような負のオーラがあり、地区全体から流れている停滞感や、住民の高齢化も似たような雰囲気を醸し出している。
そこにいきなり演劇人が乗り込んできて、劇場なんてものをつくって、何やらよく分からん芝居なんてものをワイワイとやらかしている・・・。
もちろんやっている芝居の傾向も違うし手法も違うのだけれど、目指しているものは同じようなことで、つまりそれは「演劇でこの地域を盛り上げてやる!」といった心意気だと感じる。
両者のやろうとしていることとは、即ち上記の「ハレ」なのだと思う。
なんとなくうまくいかなくなってしまった地方の「ケガレ」のような現状を、非日常的な空間を現出させる演劇という「ハレ」で浄化し、「ケ」の状態に戻そうとしているのではないか・・・?
何故このようなことを書いたのかというと、9月の鳥の演劇祭3のときに参加したパレードと、今回の枝光での商店街のど真ん中で上演された芝居とが、僕の中ではまさに「ハレ」だと感じられたからだ。
それは昔、夏祭りの盆踊りだとか、地蔵さんの祭だとか、そういった年中行事・伝統行事の中で感じた感覚に似ている気がする。
元々はその地方ごとにあった古い祭や行事、そこにはたしかに「ケガレ」を祓う「ハレ」の要素があったはずで、だからこそアレコレとあってもそこに人々は暮らしていけたのだと思う。
今、そうしたハレの行事がどれほど残っているだろうか?
形だけは残っていても、形骸化・観光資源化・商業化してしまい、「想い」が軽視されてはいないだろうか?
今、そうした行事を復活させる動きは確かにある。
けれども、本当に過疎化や高齢化が進行した地域ではなかなか難しい。
そうしたときにこそ、演劇の持つ非日常性や娯楽性といったものが有用なのではなかろうか?
鹿野の「鳥の演劇祭」と枝光の「えだみつ演劇FESTIVAL」。
これらが是非、それぞれの地での「ハレの行事」となり、地域に「ケ」を取り戻していって欲しい!
そこに演劇の可能性と新たな魅力を感じずにはいられない・・・。
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